女らしい装いへの抵抗感

小さい時は生き辛かった。小学2年生の頃には、人生終わらせたいなぁなんて考えていた。
何がそんなに嫌だったのか、思い返すと、性的なアイデンティティに問題があって、どうもそれがストレスだった気がする。


元々女の子として生まれて女の子として暮らしていたのだけど、短髪にズボンでいることが多かったせいで、男の子に間違われてばかりだった。そのたびに「わたしは女の子よ!」と抗議していたそうだけど、一方で女の子らしい行動をした時に、女みたいと周囲の男の子たちに囃したてられるのも恥ずかしくて嫌だった。


正直、今でも女らしい装いをすることには抵抗がある。特にメイクすることに対してのハードルが高い。


真っ裸を見られることと、メイクをしてる最中を見られることと、より人から見られたくないのは私の場合、後者だ。
それでも何でも「まともな人」に見られるために、仕事には簡単なメイクをしていくのだけど、お昼休みにトイレで化粧直しをしている最中に知り合いが入ってくるとものすごく動揺する。


もっとお化粧した方がいいよとよく人から言われてきたのだけど、これまでうまく自分の心理を説明できず、絶縁してしまった相手もいた。この記事を書いて少しすっきりした。

マカロンの思い出

カロンを初めて知ったのは13歳の時で、阪神淡路大震災とか地下鉄サリン事件とかが起きる少し前のことだ。
知ったといっても、図書館で借りたイプセンの『人形の家』の中に主人公の好物として登場しただけのことで、私自身が口にしたわけではない。小説に出てきたマカロンが何なのか全くイメージができず、それはそれは困惑した。


マから始まる洋菓子と言えばマシュマロだけどどうもそれとは違うようだし、一字違いのマカロニはお菓子ではないし、ノラが恋焦がれているマカロンとは一体どれほど素敵なお菓子なのかと、もやもやしながら読了した覚えがある。


いつのことだったかもう覚えていないけど、数年前に初めて食べたマカロンは、口に入れるともそっとして、それほど私の好みではないと思った。でもほんのり香るフレーバーと見た目の可愛さには心がときめいた。


あの時の私と同じ年代の子供が同じ本を読むときには、私が抱いた疑問はクリアな状態で読み進められるのかと思うと少し感慨深いものがある。でもそれが何か分からない上に調べる手段もないまま、想像だけで読み進めるしかなかったのは、それなりに密度の濃い読書経験だったなぁとも思う。

生まれてくることを制限される世代

少子化問題について考えてて、子沢山だった昔の日本では「子供の存在が市場的な価値を生むものだったから産んだ」一面があるよなぁといつも思う。


市場的な価値を生むとはつまり、金になるということ。
息子を奉公に出したり娘を売ることで、親は子供を産み育てる投資に対して見返りを得ることができた。
嫌な話ではあるが、よそにやるという選択肢があったから、手元に残した子に集中投資も可能だったろう。


一方、現代の日本では児童労働は厳しく禁じられ、子供は愛護し保護する対象だ。
大多数の夫婦は、自分達の持てる資源と見比べて子供の数を調整している。


少子化対策とは、このようにして誕生を制限された子供たちをいかにしてこの世に送り出すか、ってことに尽きるのだろう。
お金があれば、という単純な問題でもないのが難しいところだ。


愛情を持って育てられなかった子供が長じて後、陰惨な事件を起こす例(秋葉原通り魔事件大阪2児餓死事件)が多いように思うから、少なく産んで大切に育てる風潮自体は子の福祉から言って望ましいように思える。


でも、だけど、そんな風に生まれてくることを制限される世代というのは一体どういう気分がするものだろう?


自分自身が生まれる前のことについては勿論覚えていないのだけど、暇に任せてこんな想像をよくする。
生まれるチャンスを待っている列(飛行機搭乗のキャンセル待ちとか銀行の窓口の順番待ちとか、そんなイメージの列)が彼岸にあって、最近はその人数が少子化の影響で増えるばかりで、皆すっかり待ちくたびれている。
(そうだ、このイメージは映画『スープ〜生まれ変わりの物語〜』で見たものだと、ここまで書いて思い当たった。)


どうやら、生まれ変わりや魂なんてものに、私は夢を抱いているようだ。そういった現象の可能性に期待することで、もう今生では会えない人びとの存在に絶望しないようにしているのかもしれない。

手の中の風

ハイティーンの頃、岩波文庫から出ている『ルバイヤート』を愛読していた。
禁酒禁欲なイスラム文化にありながら、酒や色を謳うこの詩集の在り方が何となく面白くて、まだ酒の味も異性の肌も知らない子供のくせに愛読していた。


一番好きだった詩がタイトルに挙げた言葉の出てくる詩で、「ないものの中にも手の中の風があり/あるものの中には破壊と崩壊しかない」というような感じだったと思う。
知っているだけで自慢できそうな、かっこいい言葉の連なりが単純にかっこよくて、その頃の私がその詩を愛したのはただそれだけのことだった。


でも倍の時間を生きた今になって、手の中の風を痛切に感じる。


若い頃の私は文学とか哲学とか美術とかに比較的傾倒していたのだけど、病名は付かないまでも貧血気味で体の調子が悪かったのがその原因だった。(何となくいつも気持ちが重いと、人間はそういった方面に救いを求めるものなのかも知れないと今になって思う。)
20代後半以降、幸いにして健康を取り戻し、それはとても喜ばしいことだったが、反面、元いた世界へ向かう気持ちが薄れてしまった。それは少なからず私を困惑させた。


ずっとなぜなのか分からなかったけど、これらの因果に気付いたとき、ああこれが無常感というやつかと思った。
影が無くなることは良いことばかりではないのだ。


最近は老いを感じることもある日々で、また少し手の中に風が戻ってきた。そしてその風は私を勇気付ける。

キルギスの誘拐結婚から始まるとりとめもない考え

キルギスのアラ・カチュー(誘拐結婚)について随分前に知った。


「キルギスの誘拐結婚」 | ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 日本版公式サイト

仲間を連れた若い男が、嫌がる女性を自宅に連れていき、一族総出で説得し、無理やり結婚させる


キルギスの誘拐結婚』(林典子写真・文/日経ナショナル ジオグラフィック社刊)について、金沢大学法学類教授の仲正昌樹氏のインタビュー記事を以下に引用する。

中央アジアのキルギス 女性の3割が今も「誘拐結婚」と推定│NEWSポストセブン

誘拐された女性の、なんと8割が説得を受け入れ、女性が最終的に結婚に合意しなければ、実家に帰さなければならないという「暗黙のルール」がある


誘拐とは言っても、男性側の親族が一丸となって、花嫁候補としてさらってきた女性を説得するという。女性がその説得に応じなければ結婚は成立しない。
ただし、一度さらわれた女性は結婚を断り実家に帰った場合、世間から後ろ指を指される。この世間の価値観により、女性は結婚に追い込まれているようだ。


男性と違い、女性は一度男を知った(キズモノになった)途端に結婚できなくなるという、近代以前の価値観が健在な社会なのだろう。


ここで、『犯されたら泣けばいい』という詩を思い出した。
この詩を初めて読んだ十代の時はひどく衝撃を受けたものだ。
特に衝撃的だった箇所を以下に引用する。

犯されたら もう一度
犯されにいけばいい
犯した男の目の前で体を開けばいいさ
もっともっとよと迫っていって
男が逃げだすまで
追いかけてゆくのも
あなたたちの手の内よ
生き様よ


この詩を知るまでの私は、女がそのような被害に遭った場合、その後は檻に入ったような心持で一生人生を送ることになるのだと思い込んでいた。
精神的な檻に囚われるイメージ。
実際、セカンドレイプという言葉があるくらいなので、犯された被害者にも罪があるという価値観は旧弊な文化においてはある程度一般的な価値観だと思う。
でもこの詩を知ったその時に、私はこのような「犯されてはならない」不条理な戒めから解放された思いがした。


貞操、純潔、といった言葉が示す価値観に、これまでどれだけの女が人生をふいにしたか、考えてみるとぞっとする。
曽根富美子の漫画「親なるもの断崖」に良い例を見つけた。
太平洋戦争前後の室蘭の遊郭の話だ。


sps.k-manga.jp


ここでは妓楼に売られた姉妹が対照的に描かれる。
姉は初見世の夜に首をくくり、まだ11歳の妹は苦界で生き延びることを選ぶ。
二人の大きな違いは、破瓜に際しての自己決定力にあったように思える。
好きな男への貞操観念に姉は殺された。姉への供養に動機付けられた妹は、幼すぎるゆえそういったしがらみが無かった。


女という受身的に扱われがちな性にとっては、性的なことに対して能動的に生きることが男以上に重要なのかも知れない。

後天的マイノリティと、先天的マイノリティ

今日のはてなで上がっていた以下2記事を読んで、掲題のようなことを考えた。

■先天的マイノリティ例

田母神俊雄 on Twitter: "渋谷区で同性パートナー条例が本日可決されたとか。しかしこれを認めては人類社会が続かなくなる。少数意見を尊重するという考え方が行き過ぎている。同性婚を主張する人たちは特別な人たちであると思う。制度としてそれを認める必要はない。別に同性が一緒に生活する事は禁止されていない。"


「困っている少数派向けのシステム」というのは、今現在困っていない多数派のメンバーがいつか困った事態に陥ったときにも有効だから、社会的に投資する意義があると聞き、なるほどと思ったことがある。卑近な例を挙げると、例えば生活保護とか身障者向けのスロープ、点字ブロックとか。


情けは人のためならず、である。


だが、先天的マイノリティへの備え、上の記事で言うと同性婚の容認が、果たしてどのような効果を自分に返してくれるのか、平凡な異性愛者である私にはすぐには想像できない。
ググるとEMA日本のサイトで経済の活性化、HIVの広がりの抑制などが挙げられているが、ごく限定的な効果に思える。・・・想像をたくましくすると、自分の子や孫に同性愛者が生まれた場合には、間接的な恩恵があるかもしれないが。


後天的マイノリティに比べて、先天的マイノリティは理解を得られにくい。
そんなことを今回考えた。


自分自身へのメモだけど、最後に村上さんのコメントから引用。

僕にできるのは、傷ついたり、理解されなかったり、悲しみにとらわれたり、深い沈黙に潜り込んでしまったりした人々の姿を、小説の中に描き続けることだけです。もしそれがあなたの心に、一種の「浄化」のようなものをもたらすことができるとしたら、僕としてはなにより嬉しいのですが。

物語の意義って、ひとことで伝えられない複雑な心の動きを再現することにあると思う。

そりゃ、新しい概念を正しく表す言葉を見つけるのは時間がかかるでしょーよという話

自己満足でカタカナ語を振りかざす人々が多いIT業界
ここでわけのわからない文章として例に挙げられているのは、単にUS版ページの直訳に見える。

When your data integration needs grow from one-off projects to a business initiative that helps drive the success of your organization, you need an enterprise-class platform you can trust.

http://www.informatica.com/us/products/enterprise-data-integration/powercenter/

データ統合のニーズが単発のプロジェクトから組織の成功を左右するビジネスイニシアチブに成長するときには、信頼できるエンタープライズクラスのプラットフォームが必要になります。


ほらね、ぴったり一致する。


大体、このページは専門的な製品の紹介ページなので、専門外の人が読んでも分からないのは当然。
そもそも「データ統合」の段階で具体的にどういうことかイメージできてない人の方が世の中には多いはず。
ところが「データ」も「統合」も辞書に載ってる一般的な日本語なので何となく分かったような気にさせられてしまう辺り、日本語に置き換えることが必ずしも親切とは私には思えない。


それからカタカナで言葉を使用する意味について。
「日本語で言ってくれればわかるのに・・・と思うカタカナ語ランキング」の4位にランクインしている「エビデンス」は、私の周りでは「証拠」ではなく「証跡」という言い方をする。
「エビデンスを取る」とか「証跡を取る」というのはよく聞くけど、「証拠を取る」という言い方は決してしない。
でも「しょうせき」って普段耳慣れない言葉過ぎて、日本語ネイティブでも聞き取れなかったり誤解する人が多いと思うのだよね。
IT業界内で「既定」の意味で「デフォルト」が多用されるのも似たような理由だろう。


過去には「インフォームド・コンセント」の概念が日本に導入された時も最初の記事の筆者のように怒っている人を見かけた気がする。
あ、「リストラ」の時もいたなぁ。


でも外国から入ってきた新しい概念を正しく表す言葉を見つけるのは、その業界の人間だけの仕事では無いはず。日本の社会全体で共通の認識として落ち着くまでは時間がかかるし、それまでは分かりにくいのは仕方ない。


以上、釣りに思えるけど釣られてみた。

お酒に飲まれる人々はいずれも疎ましい

酒飲めないヤツだって辛いんだい。泣いた!お酒の席での辛辣なお言葉集 - 自省log
を読んで、筆者のやるせなさは分かったけど、なにか釈然としない気持ちになった。


私がこれまで経験したお酒の場で出会った人を分類すると以下の表のようになる。

アルコール分解酵素の働き お酒との関係 称号
強い 飲まれる アルハラ予備軍
弱い 飲まれる トイレがお友達
弱い 飲む アル充
強い 飲む 飲みすぎ注意


記事内で辛辣な言葉を放ってる人々はもちろん「アルハラ予備軍」。
他のどの分類の人からも好かれない。


最初の記事の筆者のような人は「トイレがお友達」。
(うまく自衛して、実際にはトイレから出られない状況にはなってないかもしれないけど)


実はこの手の話題になった時に、私はいつも残念な気持ちになる。
その理由についてこれまでうまく説明できなかったけど、それは「お酒に飲まれることばかりが議論されるから」だと上の分類表を作って気付いた。


アルコールの分解酵素の働きが強かろうが弱かろうが、お酒に飲まれる人々はいずれも私には疎ましい。
前者の鬱陶しさは言うに及ばないが、後者もなかなかどうしてたちが悪い。
自らの世界の狭さを棚に上げ、一方的にお酒を悪者にするのは大体この分類の人々だ。


私にとってお酒は味わい愉しむための嗜好品だ。
また、ストレスで緊張した筋肉をほぐし体を温めてくれる機能にこれまで何度助けられたか分からない。百薬の長と呼ばれる意味がよく分かる。
だからお酒とのつき合い方を知らず、そのアルコール成分の作用についてしか語れない人と席をともにすると一気に興ざめしてしまう。


お酒に飲まれる人々とのあれこれを思い出していてもつまらないので、愛すべきアル充の言葉で最後を締めくくることにする。

「好きなんやけど弱いんよなー」


また一緒に飲もう!!

草食系について考えるときに私が思い出す寓話

小学生の時にこんな話を読んだ。

昔あるところに、高貴な家柄の若君があった。
お付きの者たちはこの子が幼い時から事あるごとに、「女には気を付けよ」と諭して育てた。
女と間違いを起こした者がいかに酷い目にあったか。女というものがどんなに取るに足らないつまらないものであるか。

やがて若君は妻を娶る年頃になった。

どんな相手が良かろうかと、周囲の者たちが彼に女の好みを聞いた。
若君は答えた。

「女というのは価値のないつまらぬものであるのだろう?私は結婚などしない」

それまでもそれからも類似した話を聞かなかったので、出典についてはもはや知るすべもない。(中国の昔話と紹介されていたような覚えがある)

 

この話から私が学んだことは以下の通りだ。

  1. 大人から危険だからと近づくことを禁止されている事柄でも、触れなくてはならない日がくる場合がある。
  2. あまりにもリスクから隔離して育てられると、必要なリスクも取れなくなる。

 

草食系について考えるとき、いつも上の話を思い出してしまう。

学び1は自分自身が成長する時に役立った気がするが、学び2は 自分が育てる側に立つ時に意識して注意しなければなるまい。

それぞれの荷物

朝食を取っていたら、高校生平和大使の結団式についてNHKでやっていた。

「8月に国連欧州本部(ジュネーブ)を訪ね、「高校生1万人署名活動」で集めた署名を届ける」のだそうだ。

報道の中で、アメリカの高校生が放射能の恐ろしさについて何も知らないことに衝撃を受けた、という発言があって気になった。

 

日本は唯一核を落とされた国なのでその被害について小学校で必ず習うけど、他国で教材として扱われることは少ないだろうし、結果として他国の人間が知らないのは仕方ないと思う。

あるいは発言の主にしてみれば、アメリカは一方の当事者なのに、どうして無関心でいられるのか信じられないという話なのかもしれない。

でもこれは韓国の人が日本の「侵略」について非難するのと変わらない。

 

  • 原爆についてのアメリカの主張

→原爆のおかげで戦争が終わった。戦争が続いていたら、もっと多くの被害者が出た。

  • 朝鮮併合についての日本の主張

→併合のおかげで朝鮮は発展し、人口は増えた。併合していなかったら、ソ連や他国に侵略されて朝鮮の人はもっと酷い扱いを受けていた。

 

それぞれ被害者側から見ればとんでもない主張なんだけど、悲しいかな第3者では一理あると感じる人も少なくないと思う。

実にもどかしいが、国同士の間で起きたネガティブな出来事の評価なんてこんなもんだろう。

 

それに、放射能は確かに恐ろしいのだけど、アメリカの高校生にしてみれば氾濫している銃の方がよほど現実的かつ直接的に危機を覚える対象だろう。

 

それぞれの国がそれぞれの荷物を抱えている。

 

自分の抱える荷物についてアピールするのも大事なのだろうけど、相手の荷物についても配慮がないと、分かってもらうのはなかなか難しいだろうなぁと、そんなことを考えた。

女性手帳モデルの失敗例を見て震撼する

女性手帳モデルとも言うべき、20代半ばで第一子出産した女性にまつわる事件が最近続いた。

自転車に隠しカメラで監視、元妻を切りつけたDV夫が異常すぎる
http://matome.naver.jp/odai/2136927625505253901

大阪の母子遺体は餓死か?「食べさせられなくてゴメンね」とのメモが見つかる
http://matome.naver.jp/odai/2136963844310947501

20代半ばでの出産は肉体的には決して早くないが、こういう不幸な話を聞くと考えさせられてしまう。
結婚相手がDVだった場合にも適切に対処できないと、子供と一緒に人生詰んでしまう。

理想的な年齢で子供を産んでもこれでは元も子もない。


亡くなられたお二人のご冥福をお祈りします・・・。

名前の由来を学校で取り上げるのは余計なお節介

名付けに関するエピソードを読んだ。

モンペに子供の名前を変えろって言われて警察沙汰になった
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-5019.html

要約すると、沙瑠羽(さるぱ)ちゃんと名付けられた女の子が母親に名前の意味を聞いたら「可愛い名前」と言われるばかりで、特に意味がないことが判明。沙瑠羽ちゃんはショックを受ける。
一方、スレ主の双子の娘たちの名前には世襲ルールや意味があり、それを妬まれて騒動に巻き込まれた、、、というお話。

◆◇◆◇◆

いわゆるキラキラネームはネットで盛り上がる鉄板ネタのようでよく見かける。
個人的にはいつも笑い話として読み流しているのだけど、沙瑠羽ちゃんの話についてはちょっと引っかかるものを感じた。

自分の名前の由来について親に聞いてくるという宿題が出たことが私にもあった。
その時のうちの親の回答は、名付けの相談を受けてくれる人にお金を払って診てもらったというもので、私もショックを受けたことを覚えている。

私の名前は同世代の中では本当にありふれたよくある名前だけど、名付けに当たって特に意味はなかった。思春期の入り口に差し掛かった年頃のプライドで、自分がショックを受けたことについては適当にぼかして授業で発表したような記憶がある。

そんな経験から思うことには、学校の授業で「名前=意味があるもの」とか「名前=親の願いが込められているもの」という前提で話をするのがそもそも余計なお節介という気がする。

貧しい時代にはこれで最後の子になるようにという意味でトメ(留)という名を付けていたという話もあるし、山本五十六の名の由来も父親が56歳の時の子供(恥かきっ子)ということらしい。宗教的な由来で名付けが行われることもある。

 

・・・名前自体が公開された存在なのに対して、その由来を追求するととてもプライベートな領域に踏み込むことになるのは少し面白い。


ともあれ、小学生では親から期待外の答えが返って来たときに気持ちを処理するのが難しいと思う。たきつけて同級生と比べ合うような状況を敢えて学校が作る必要はない。
名前なんて所詮記号に過ぎない。
学校はそんな割り切ったスタンスである方が賢明に思われる。

日本では見かけない報道写真

ボストン爆破テロに関する英語圏(たぶんアメリカ)の報道をネットで見てたら、両足を吹き飛ばされて骨が見えている男性(ジェフ・バウマンさん/ Jeff Bauman )が車椅子で運ばれている写真があった。
日本のマスコミではまず見ることがない衝撃的な写真で、少しくらくらした。

日本のマスコミはあからさま過ぎる写真にモザイクをかけたり、そもそも報道しなかったり、読者に優しい。
いや、読者だけでなく被害者にも優しいのかも。
自分の不幸をニュースとして消費されるのは結構な屈辱でもあるから、曖昧にぼかすマスコミのスタンスはそう悪くないとも思える。(両足を吹き飛ばされて車椅子に乗ってる姿を果たして私は不特定多数の人に見られたいか?と考えると、見られたくないと思う。)

実際、写真や映像は扱いが難しいメディアだと思う。

以前、ホッキョクグマの雄が血に染まった子熊の頭部をくわえた写真が「温暖化で飢え、子熊を襲った」という文章とともに紹介されているのを見たことがある。野生動物の間では、雌の発情を促すために、雌が連れている他の雄との子を別の雄が殺すことがよくあるということを知らなかったらそのまま信じてしまっただろう。

けれども写真や映像には文章では伝えられないものを伝える力がある。
ボストンの爆破事件がいかに酷かったか、今回の写真を見て私は初めて分かった。

この事件の酷さを私が知ったからと言って何かが変わるわけでもないし、知らなくても生活に支障はないし、むしろ知ったことで気分が落ち込んだが、いかに酷かったか分かったことは個人的に良かった気がする。

なぜかって、平和であたたかな守られた世界しか知らなかったら、自分の目の前で酷いことが起きた時に頭が真っ白になってとても対処しきれないと思うから。
酷い現実を見ることでそれに対処できるようになるわけではないけれど、少なくとも、自分の心が即死するリスクは減らせるんじゃないかな。

悲惨なこと

三國連太郎さんが亡くなられたというニュースを最初に見たときは、芸能情報に疎いのであまりぴんと来なかった。佐藤浩市さんのお父様という紹介で「あ、すごい人なんだ」と認識した。
確執があって父子は疎遠だったという記事に興味をそそられ、Wikipediaを開いた。
70年前に徴兵されて戦争に行かれていたエピソードにいちばん衝撃を受けた。
享年90歳。

◆◇◆◇◆

高齢者が多すぎてその価値が暴落している時代だけど、戦争に巻き込まれた世代の話を聞くとさすがに何も言えなくなってしまう。
「戦争に行った」とか「原爆に遭った」といったエピソードって、悲惨過ぎてその他ほとんどの苦労話を無効化する説得力を感じる。そんな経験をした上で生き抜いてきたあなた方はすごい、としか言えない。
戦争を経験した世代は世代間ギャップさえ正当化する理由を持っていた。

翻って、戦争が終わって生まれた世代は自分より下の世代を黙らせる説得力を持たない。昔はみんな貧乏で食べることで精一杯だったという苦労話を団塊世代の親から聞くことがあるけど、ふーんそうだったんだという感想しかない。苦労話と言っても悲惨さがないから気楽に聞き流せる。


・・・でもそれって結構悲惨なことだと思われて、その理由をあれこれ考えたんだけど、うまく説明できない。

夫や妻に代わる言葉

パトリック・ジョセフ・リネハン氏(現・大阪・神戸アメリカ総領事館 総領事)のインタビュー記事を読んだ。
彼の「夫」は日系ブラジル人のエマーソン・カネグスケ氏。
二人はゲイのカップルだそうだ。

 

ここで、「という事は総領事が妻?」と思った無知蒙昧な私。

同性愛者の場合は、夫同士または妻同士になるのだね。ひとつ賢くなった。

 

中学生の頃、英語の授業でMiss.とMrs.を習ったついでにMs.も紹介されたのを思い出した。

Miss.は未婚女性、Mrs.は既婚女性に付ける敬称。でもMs.は未婚既婚を問わず使える敬称です、と先生が言ってた。

女性の社会進出に伴い、第3の敬称が生まれたという話だった。

 

同性愛者の社会進出に伴い、パートナーを示す第3の名詞も早く生まれると良い。

 

「夫」も「妻」も文化的な先入観が染み付き過ぎていて、伝統的に期待される役割を果たさない人を辱める。

例えば「働かない夫」は「働かない妻」より問題があるし、「料理をしない妻」は「料理をしない夫」よりタチが悪い。

 

夫や妻に代わる第3の名詞は、きっと大多数の異性愛者カップルにも自由を与えてくれるんじゃないかな。