生まれてくることを制限される世代

少子化問題について考えてて、子沢山だった昔の日本では「子供の存在が市場的な価値を生むものだったから産んだ」一面があるよなぁといつも思う。


市場的な価値を生むとはつまり、金になるということ。
息子を奉公に出したり娘を売ることで、親は子供を産み育てる投資に対して見返りを得ることができた。
嫌な話ではあるが、よそにやるという選択肢があったから、手元に残した子に集中投資も可能だったろう。


一方、現代の日本では児童労働は厳しく禁じられ、子供は愛護し保護する対象だ。
大多数の夫婦は、自分達の持てる資源と見比べて子供の数を調整している。


少子化対策とは、このようにして誕生を制限された子供たちをいかにしてこの世に送り出すか、ってことに尽きるのだろう。
お金があれば、という単純な問題でもないのが難しいところだ。


愛情を持って育てられなかった子供が長じて後、陰惨な事件を起こす例(秋葉原通り魔事件大阪2児餓死事件)が多いように思うから、少なく産んで大切に育てる風潮自体は子の福祉から言って望ましいように思える。


でも、だけど、そんな風に生まれてくることを制限される世代というのは一体どういう気分がするものだろう?


自分自身が生まれる前のことについては勿論覚えていないのだけど、暇に任せてこんな想像をよくする。
生まれるチャンスを待っている列(飛行機搭乗のキャンセル待ちとか銀行の窓口の順番待ちとか、そんなイメージの列)が彼岸にあって、最近はその人数が少子化の影響で増えるばかりで、皆すっかり待ちくたびれている。
(そうだ、このイメージは映画『スープ〜生まれ変わりの物語〜』で見たものだと、ここまで書いて思い当たった。)


どうやら、生まれ変わりや魂なんてものに、私は夢を抱いているようだ。そういった現象の可能性に期待することで、もう今生では会えない人びとの存在に絶望しないようにしているのかもしれない。