キルギスの誘拐結婚から始まるとりとめもない考え

キルギスのアラ・カチュー(誘拐結婚)について随分前に知った。


「キルギスの誘拐結婚」 | ナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC) 日本版公式サイト

仲間を連れた若い男が、嫌がる女性を自宅に連れていき、一族総出で説得し、無理やり結婚させる


キルギスの誘拐結婚』(林典子写真・文/日経ナショナル ジオグラフィック社刊)について、金沢大学法学類教授の仲正昌樹氏のインタビュー記事を以下に引用する。

中央アジアのキルギス 女性の3割が今も「誘拐結婚」と推定│NEWSポストセブン

誘拐された女性の、なんと8割が説得を受け入れ、女性が最終的に結婚に合意しなければ、実家に帰さなければならないという「暗黙のルール」がある


誘拐とは言っても、男性側の親族が一丸となって、花嫁候補としてさらってきた女性を説得するという。女性がその説得に応じなければ結婚は成立しない。
ただし、一度さらわれた女性は結婚を断り実家に帰った場合、世間から後ろ指を指される。この世間の価値観により、女性は結婚に追い込まれているようだ。


男性と違い、女性は一度男を知った(キズモノになった)途端に結婚できなくなるという、近代以前の価値観が健在な社会なのだろう。


ここで、『犯されたら泣けばいい』という詩を思い出した。
この詩を初めて読んだ十代の時はひどく衝撃を受けたものだ。
特に衝撃的だった箇所を以下に引用する。

犯されたら もう一度
犯されにいけばいい
犯した男の目の前で体を開けばいいさ
もっともっとよと迫っていって
男が逃げだすまで
追いかけてゆくのも
あなたたちの手の内よ
生き様よ


この詩を知るまでの私は、女がそのような被害に遭った場合、その後は檻に入ったような心持で一生人生を送ることになるのだと思い込んでいた。
精神的な檻に囚われるイメージ。
実際、セカンドレイプという言葉があるくらいなので、犯された被害者にも罪があるという価値観は旧弊な文化においてはある程度一般的な価値観だと思う。
でもこの詩を知ったその時に、私はこのような「犯されてはならない」不条理な戒めから解放された思いがした。


貞操、純潔、といった言葉が示す価値観に、これまでどれだけの女が人生をふいにしたか、考えてみるとぞっとする。
曽根富美子の漫画「親なるもの断崖」に良い例を見つけた。
太平洋戦争前後の室蘭の遊郭の話だ。


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ここでは妓楼に売られた姉妹が対照的に描かれる。
姉は初見世の夜に首をくくり、まだ11歳の妹は苦界で生き延びることを選ぶ。
二人の大きな違いは、破瓜に際しての自己決定力にあったように思える。
好きな男への貞操観念に姉は殺された。姉への供養に動機付けられた妹は、幼すぎるゆえそういったしがらみが無かった。


女という受身的に扱われがちな性にとっては、性的なことに対して能動的に生きることが男以上に重要なのかも知れない。