後天的マイノリティと、先天的マイノリティ

今日のはてなで上がっていた以下2記事を読んで、掲題のようなことを考えた。

■先天的マイノリティ例

田母神俊雄 on Twitter: "渋谷区で同性パートナー条例が本日可決されたとか。しかしこれを認めては人類社会が続かなくなる。少数意見を尊重するという考え方が行き過ぎている。同性婚を主張する人たちは特別な人たちであると思う。制度としてそれを認める必要はない。別に同性が一緒に生活する事は禁止されていない。"


「困っている少数派向けのシステム」というのは、今現在困っていない多数派のメンバーがいつか困った事態に陥ったときにも有効だから、社会的に投資する意義があると聞き、なるほどと思ったことがある。卑近な例を挙げると、例えば生活保護とか身障者向けのスロープ、点字ブロックとか。


情けは人のためならず、である。


だが、先天的マイノリティへの備え、上の記事で言うと同性婚の容認が、果たしてどのような効果を自分に返してくれるのか、平凡な異性愛者である私にはすぐには想像できない。
ググるとEMA日本のサイトで経済の活性化、HIVの広がりの抑制などが挙げられているが、ごく限定的な効果に思える。・・・想像をたくましくすると、自分の子や孫に同性愛者が生まれた場合には、間接的な恩恵があるかもしれないが。


後天的マイノリティに比べて、先天的マイノリティは理解を得られにくい。
そんなことを今回考えた。


自分自身へのメモだけど、最後に村上さんのコメントから引用。

僕にできるのは、傷ついたり、理解されなかったり、悲しみにとらわれたり、深い沈黙に潜り込んでしまったりした人々の姿を、小説の中に描き続けることだけです。もしそれがあなたの心に、一種の「浄化」のようなものをもたらすことができるとしたら、僕としてはなにより嬉しいのですが。

物語の意義って、ひとことで伝えられない複雑な心の動きを再現することにあると思う。